嬉野温泉駅前店へ勤務する溝上隼平(みぞかみ しゅんぺい)さんは2001年、佐賀県武雄市山内町生まれ。山内町の小学校、中学校に通い、幼少期はゲームをするより近所の山などで体を動かして遊ぶことが多かったと言う。小学校の頃から習字やバドミントンを始め高校からは友人と社会人ソフトテニスに通い始め現在も続けている。将来は公務員になりたいと思っていたが、親戚などから工業高校を勧められたこもあり有田工業高校のセラミック科へ進学し、就職を目指す。卒業後は大手の衛生陶器の企業へ就職を考えていたが、その年は求人が無く大分県にある型枠製造機械の製造会社へ就職する。しかしコロナ禍の影響もあり2年目を迎える前に退職することになった。それから地元に戻り仕事を探していた際に、トヨタレンタリース佐賀と縁があり 正社員として入社することとなる。
習字、バドミントン、ソフトテニス
溝上さん:山に囲まれた集落みたいなとこなので、小学校も一学年10人くらいの分校でした。なので最近の子供みたいにゲームとかで遊ぶよりも近所の友達とサッカーをしたり山とか川で遊んだりしてました。小学校1年からは祖父が習字の先生と付き合いがあり、兄も先に習っていたので私も通いました。たしか2段くらいまで取得してました。コンクールとかで賞をもらったり、今はしてませんが人前で字を書くときにやっててよかったと思います。中学生になってからは社会人バドミントンを友達に誘われ始めたんですが、2年生になって体調を崩し辞めることになりました。高校生では兄がソフトテニスをしており、自分もしたいと思い体力づくりから始め3年間続けることが 出来ました。今も週1回くらい友達と集まってやってます。仕事を始めてからバイクも乗るようになったんですが、父が乗ってたのもあるんですけど、ツーリングとかは友達としか行かないです。
セラミック科とは!?
溝上さん:有田工業高校を選んだきっかけは兄も行っていた高校で親戚や知り合いからも工業高校に行ったが就職に繋がるからと言われ自宅からも自転車で行ける距離だったのがきっかけです。学科はセラミック科を選びました。セラミック科ていうのは九州でも珍しい学科で主に陶磁器について勉強をする学科です。でも将来陶芸家になろうとは思わなかったです。兄は機械科でしたが、祖父や父もセラミック科(当維持は窯業科)でしたのでとりあえずって感じでセラミック科に入りました。ただセラミック科を卒業した先輩がいる企業にインターンシップで行ったんですけど作業内容などを見学して自分もやってみたい、ここに就職したいと思いました。有名なトイレの会社なんですけど。でも自分が受験をする年がセラミック科を募集してなかったので受験出来ず 他の企業を探していたら友達のお兄さんも務めている大分県の企業求人があり大分県には親戚もいたので受験し、就職することが出来ました。そこは機械をメインに扱い、自動車部品の型枠を作る為の機械を作る企業でした。主にNC旋盤を使って作業をしてました。
コロナ渦で繋がった縁
溝上さん:大分県で務めてた会社は中国に大きな工場がある会社でコロナ渦の影響で稼働出来なくなり退職せざるを得なくなりました。それから佐賀に帰ってきたときは、やっぱり公務員になろうと思って、専門学校だったりハローワークとかに行って 試験を受けれるところなどを探してました。そうしている時に自分の父がトヨタレンタリース佐賀で前々からリースをしてるのもあって、その時の担当営業が今の次長なんですけど、最初は洗車だけでいいからうちに来てみらんやぁとお誘いの話を頂いきました。当初はアルバイトくらいの気持ちで受けたんですが、実際には正社員として入社することになりました。配属先は伊万里店だったんですが、前職が工場勤務だったのであまり気にしてはなかったんですが、レンタカーは接客業なので顔の表情や言葉遣いが大変でした。当初は洗車だけじゃないやんって思ったんですけど、元々車には興味があったのでいろんな車に乗れて楽しかったのと初めてカーディラーに行って新型車に触れたり、そういう経験も出来て続けることとなりました。伊万里店は地場のビジネスのお客さんとか保険の代車が多く、どちらかと言えば観光客の方と接する機会は少なかったです。入社から2年程して今の嬉野温泉駅前店へ異動になりました。嬉野では駅に近いこともありレンタカーを使われるのは県外の観光客がほとんどで、店舗もガラス張りで開かれているので近所の方や通行人と接することが多いなと思います。今後もいろんな方とコミュニケーションを取って嬉野温泉駅前店をもっと知ってもらいたいです。
現在、入社3年目になり嬉野温泉駅前店では近所の方やレンタカーを借りられる方とも気さくに会話をしている。これからもいろんな経験を積み、成長されるのが楽しみである。